江夏豊氏といえば、昭和の大投手でもあり江夏の21球で有名な野球評論家です。
近年ではYou Tubeで特別ゲストとして出られることもあります。
そんな江夏豊氏の現在や結婚した嫁は誰?病気と覚醒とは何?
Contents
江夏豊の現在は何してる?
解説者及び臨時コーチ及び野球評論家をされているよう。
公式Twitterがありますが、2019年の10月5日以来更新がありません。
2年前に元気に過ごしているという言葉を残しています。
皆さんこんばんは。
元気に過ごしているよ。— 江夏豊 (@enatsu_28) October 5, 2019
石毛さんのYouTubeで2020年の9月にゲスト出演しております。
また口述しますが、江川卓氏との対談も行っております。
江夏豊の結婚した嫁は誰?
家柄良い旅館の一人娘と結婚しているとのこと。
後に離婚。嫁の名前など詳細は不明です。
江夏豊氏が現役引退したらその旅館を継ぐ約束していたみたいな話しがありますが、実際のところ真実はわかりません。
ちなみに嫁といるよりも衣笠氏といる時間の方が長かったと語られています。
江夏豊「嫁といるより、サチ(衣笠祥雄)といる時間の方が長かった」#carp #tigers
— カープのコトバ (@akakotoba) May 9, 2015
江夏豊の病気は何?
覚●剤使用による病気が発生しました。
これは現役時代じゃなく現役引退引退してからの薬物使用となっております。
「覚醒剤依存症は治らない病気ではない」という事をここで強く提唱したい。芸能界スキャンダルは後を絶たないが、「岩城滉一」「美川健二」「槙原敬之」「のりぴー」「江夏豊」と数え上げればきりがないが、一般人にしても再犯者より初犯で止めている人間の方がはるかに多いという警察庁統計が示してる
— なるみん (@narumin500) July 2, 2016
江夏豊の伝説
この対談は、プロ野球のレジェンド投手である江夏豊と江川卓という2人の偉大な投手が、互いのキャリアや投手としての哲学について深く語り合う貴重な内容です。以下にさらに詳しく解説します。
三振記録と江川卓の驚き
江夏豊が持つ年間401奪三振の記録について、江川卓はその数字を見て驚き、自分には到底無理だと感じたことを告白しています。江夏自身も、その記録が異常だと認めています。江夏が当時130試合のシーズンで30試合以上に登板し、これだけの三振を奪ったという事実は、体力・技術の両面で当時の野球界において非常に特異な存在だったことを示しています。
江夏がこの記録を達成するためには、ピッチングの技術やスタミナだけでなく、精神的な強さも重要だったでしょう。江川も、彼が達成した奪三振数に対してリスペクトを表しつつ、自身との比較を通じてその凄さを強調しています。
江夏の投球スタイルとアウトロー重視
江夏豊は、自分の投球哲学やスタイルについて詳細に語っています。特に印象的なのは、右打者の胸元を攻める内角投球が主流だった当時に、彼が外角低め(アウトロー)を重視した点です。江夏は若い頃、内角への投球を試みたものの、コントロールの問題で結果を出せなかったことを語っています。そのため、2年目以降にアウトローを意識した投球に切り替え、これが功を奏して多くの成功を収めるようになったと説明しています。
彼が強調するのは、「打たれたくない」という気持ちから、あえてリスクを避けて外角に投げるスタイルを確立したことです。これは彼のピッチング哲学の中核を成しており、当時の日本プロ野球界では異質な考え方だったといえます。また、この戦略が後に彼の持ち味となり、長いキャリアを支えた要因の一つです。
江川卓に対する江夏の評価
江夏は江川卓を「天性の投手」と称しています。特に江川のピッチングが自然体であり、他の選手とは一線を画す存在であることを認めています。江夏は、江川が「天性だけで投げている」という言葉を使っており、彼の才能がいかに突出していたかを強調しています。さらに、巨人という大きなプレッシャーがかかるチームで、その才能を発揮し続けたことを非常に高く評価しています。
江夏は、自分が広島時代に江川のピッチングを見て感じた異質さを特に強調し、彼のピッチングがいかに特別であったかを伝えています。江川はその後、巨人でプレーし、注目を浴びる中でも結果を残し続けたため、江夏は「図太さ」を持った投手であったと評しています。
当時の投手事情と登板間隔
対談の中で、江夏と江川は投手の登板間隔についても話し合っています。現在のプロ野球では中6日(6日間の休養)での登板が一般的ですが、江夏や江川が活躍していた時代は中3日での登板が当たり前だったと語られています。江夏は、この過酷な登板間隔が彼らの誇りでもあったことを述べており、現代の投手と比較しても「暇で仕方ない」というほど頻繁に投げていたことがわかります。
江夏が強調するのは「登板拒否はしなかった」という点で、どんなに体調が悪くても、投げることが自分の責務であると感じていたことを語っています。これは、当時のプロ野球における投手の責任感やプロ意識を強く反映しています。
配球とランナーがいる場面での学び
江夏は、特にランナーがいる状況での配球が重要であり、そこで多くを学んだと話しています。配球とは、バッターや状況に応じてどの球種をどのコースに投げるかを決めることです。江夏は、ピッチングにおける細かい部分、特に勝負どころでの1球の重みを理解しており、そこに大きな学びを見出していました。彼がこのような細かい部分を重視していたことが、長く安定した成績を残す要因になったのでしょう。
江夏は特に日本シリーズなどの大舞台での経験を通じて、こうした重要な局面での配球を勉強したと述べています。その経験が、彼の成功を支える重要な要素になったと振り返っています。
対談の最後に見せる感謝とリスペクト
最後に、江川卓は江夏豊に対して感謝の意を表し、対談が和やかに終了します。江川は江夏のような偉大な先輩から多くを学んだこと、そしてその教えが自身のプロ野球キャリアに大きく役立ったことを振り返っています。この対談を通じて、江川は江夏に対する深いリスペクトを表しており、互いに尊敬し合う姿が強く感じられます。
また、対談の最後には誕生日の話題が登場し、江川が江夏に感謝の意を込めて「Happy Birthday」を歌うという微笑ましいシーンで終わります。このようなユーモアと温かい交流を通じて、2人の関係性の深さが垣間見えます。
総評
この対談は、江夏豊と江川卓という2人のプロ野球レジェンドが、互いのキャリアや投手哲学を深く掘り下げる貴重な内容であり、当時の野球界の厳しさや投手としての誇り、プロフェッショナルとしての意識が色濃く描かれています。江夏の独特な投球スタイルや、江川が感じた彼の「天性」の凄さが明確に語られ、野球ファンにとっては非常に興味深いエピソードです。
覚醒とは何?
阪神タイガースから南海ホークスにトレードされて南海ホークスの当時の監督野村克也と出会って覚醒したと言っても過言ではないです。
それは野村克也氏と出会って今でいうクローザーに転向してから数々の記録に記憶に残る名場面を作っているからです。
逆に言い換えるともしクローザーに転向していなければシーズン30勝を成し遂げていたであろうし更に言うと通算勝利数300勝はしただろう。数々の名場面から江夏豊を語るうえでこの伝説を語らなければならないでしょう。
1979年日本シリーズ第7戦である。
そう日本シリーズ第7戦っていうことは日本シリーズ最終戦である。9回の裏に投じたスクイズを外した1球は今でも伝説的に語り継がれている。
この1球には数ある迷信に逸話が残っていてどれが本当なのか今現在でもわからない。
なので本人自らの話によるとあの場面のときのキャッチャー水沼のサインはカーブ。
江夏豊はサウスポーなのでサードランナーは見えない。
カーブの握りのままボールをセットポジションからトップになったときにサードランナーが目に入りサードランナーが本塁に走っているのを確認してさらにはバッター石渡の構えがスクイズ。
それをボールがトップになってるときにカーブの握りからウェストに外すいわゆるスクイズ外しのウェストボールを投じたのである。
これは偶然でもたまたままぐれでもない。
江夏豊自身が意識してあの場面はカーブからウェストに外したって証言している。これは誰でも簡単に出来ない芸当である。
っていうかここ最近のピッチャーでこういう投球したのを見たことがない。
この日本シリーズ第7戦9回の裏に投げた球数が21球。これが有名な「江夏の21球」でノンフィクションライター山際淳が書いた小説である。最後は西武ライオンズで日本球界をさりメジャーリーグに挑戦したが結果はメジャー昇格直前まで行ったが昇格出来なかった。
理由は江夏豊より若いピッチャーを昇格させるっていうことであった。全盛期を過ぎていたとはいえセットアッパーなら十分にメジャーでも通用したかもしれない。
けれどもこれも運命。もし江夏豊がメジャーに昇格していたなら更なる伝説を残しただろう。「